仙台高等裁判所 昭和30年(う)185号 判決
判決理由〔抄録〕
自動車運転者が右の如き細心の注意を払って運転することの万全の措置であることはいうまでもない。しかしながら、刑事責任の基本となる過失の有無を論ずる場合において、自動車運転者が情況の如何にかかわらず常に右の如き高度の注意義務を負担するものと解することはできない。まず、注意義務の内容は、法規、慣習並びに条理に照し、当該の場合における客観的情況に即し、個別的かつ具体的に決定されなければならない。次に、自動車のような高速度交通機関は、その機能自体においてすでに危険を随伴する。しかし、それが公共のため交通機関として公認されている以上、それによって生ずる危険はある程度いわゆる「許された危険」として認容さるべきものであって、自動車運転者の側にのみ危険防止の全責任を負わすことは、法の基調とする公平の理念に反する。以上の観点に立って本件の如き場合において自動車運転者の遵守すべき注意義務の内容を検討するに、自動車運転者としては、先行の自転車が前記丁字路において後行の自動車に気付かずに右折することあるべきを慮り、その動静を注視し速度を相当低減すると共に警笛を吹鳴してその注意を喚起すべき義務あることは当然の事理である。しかし、交通法規によれば、自転車側としても、後行の自動車に進路を譲らなければならない義務があり右折しようとするときは所定の方法で合図をし、かつ、本件のような手信号による交通整理の行われていない交叉点で右折しようとする場合には、原則として直進する車馬等に進路を譲って一時停車するか又は徐行すべき義務があるのである(道路交通取締法第十六条第二十二条第十八条の二同法施行規則第三十六条参照)。従って、後行の自動車は、前説示の程度の注意義務を尽すことによって一応危険防止の措置を講じた以上、先行自転車がその姿勢態度その他の状況により右交通法規を無視してまでも進路を右折横断するの暴挙を敢てする虞があると認めらるべき特別の事情のない限り、自転車自身においても自ら法規の命ずるところに従い危険を回避するに必要な注意を払うものと予期することは当然であるから、更に不慮の衝突に備えて追越を完了するまで警笛を吹鳴し続け、終始急停車の態勢を整えつつ運転する等、小心翼々として運転をなすべき注意義務があるものと解することはできない而して、原判決引用の証拠に当審受命裁判官の証人加藤友三郎、同黒沢ミツヱに対する各尋問調書並びに当審受命裁判官の検証調書の記載を綜合すれば、被告人は普通乗合自動車を運転して前記国道の左側寄りを時速約二五粁で南進中、西側に右折する大森街道との分岐点の北方約一〇〇米の箇所に差しかかった際、約五〇米前方の道路左側を黒沢ミツヱと斎藤厚子の両名がいずれも自転車に乗り並列して同方向に進行しつつある姿を認めたので、警笛を断続的に鳴らして同女等に警告を与え、その後方一〇数米附近に差しかかった頃から速力を時速約二〇粁に低減したが、同女等は依然として道路左側を同様の姿勢、態度並びに速度で並列のまま進行を続け方向を転ずるような挙措を示さなかったので、被告人は右の状況から同女等においてそのまま直進を続けるものと判断し、その後方約五米附近(大森街道との分岐点の手前約一〇米附近)において方向をやや右に転じ次いで左に復して道路の西側に出た上、同女等の右側を通り抜けようとしてその右後方に接近した際、内側の斎藤厚子が、すでに警笛により自動車が後方に接近したことを知った黒沢ミツヱから「自動車が来たから曲れない」と注意されたにもかかわらず、突如急角度に右折して進路の前方に出て来たため、遂に自動車の前面バンパーを同女に激突して同女を路上に転倒させるに至ったこと、被告人は衝突の寸前フットブレーキを踏んで急停車の措置を試みたが、たまたまストップスイッチの故障によりその効を生ぜず、衝突後サイドブレーキによる制動操作を行ったが、結局停車するまでの間に同女を前方に引きずり、よって前記の如く同女をして死亡するに至らしめたものであることを認めることができる。以上の事実からすれば、被告人としては前方注視、速度の低減、警笛の吹鳴等自動車運転者として遵守すべき注意義務を尽しているのであり、殊に先行自転車がそのまま直進を続けるものと判断したことは、前説示のような当時の状況においては必ずしも不合理とは認め難いのであって、原判決のいうが如く「軽信」であるとなすことはできない。又フットブレーキによる急停車の措置を執っても、なお数米の惰力による進行を免れないことは当審受命裁判官の鑑定人菅野義夫に対する尋問調書の記載により明らかであるから、被告人の執った右ブレーキによる制動が故障なくその効を発揮したとしても、本件衝突事故を免れ得たものとは判定し難く、従ってストップスイッチの故障による右ブレーキの機能喪失につき被告人に何等か責むべき点があったとしても、このことと本件事故の発生との間に因果関係を認めることはできない。なお、右尋問調書の記載によれば、急停車をしようという咄嗟の場合にフットブレーキとサイドブレーキとを同時に操作することはほとんど不可能のことに属すると認められるから、被告人が同時にサイドブレーキによる制動操作を行わなかったことを目して、原判決の論ずるが如くその操作を怠ったものとはなし難い。
これを要するに、本件事故の発生した原因は、被害者の無謀な進路横断にあることが明らかであって、これに加えて被告人にも責むべき注意義務の懈怠のあったことを認むべき証拠はなく、従って、本件公訴事実はその証明がないものとして被告人に対し無罪の言渡をなすべきものといわなければならない。